将棋は僕でも対等にできる、楽しい競技(スポーツ)だ

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将棋盤

僕は自分のからだを思い通りに動かすことはほとんどできない。「トイレに行く」とか「ふとんから起き上がる」とかいうことですらそうなんだから、ましてや「競技」とか「スポーツ」みたいなものなんてまず無理だ。もちろん、「特別ルール」なんてものを作ってもらえば別だけど、そもそも僕はただでさえ疲れやすいのに、それに輪をかけて、さらにからだを疲れさせるようなことはしたくない。それに、「特別ルール」なんてものを作った時点で僕と他のみんなは「対等」じゃないってことでもある。だからってまったく意味がないわけじゃないとしても、それだけではどこかでつまらなくなってしまう気がする。

でも、そんな僕にも、相手とほとんど対等にできる競技(スポーツ)がある。それが、将棋だ。

「ターン制」で、「からだの不自由さ」を気にする必要がない将棋では、僕は相手と「対等」になれる

スポーツだけじゃなくて、「リズムゲーム」でも「格闘ゲーム」でもなんでもいいんだけど、「反射神経」が重要な要素になるようなものだったら、からだを俊敏に動かせない僕は圧倒的に不利になってしまう。でも、将棋は「ターン性」だから、制限時間が厳格に決められている対局でない限りは、多少の行動の遅さは問題にならない。手先の不器用さも関係ないし、いざとなれば「7六歩」みたいに声(言葉)で盤上の座標を指定すれば、からだをまったく動かさなくたって対局することができる。確かに、心とからだはつながっているんだし、疲れているときは考えもまとまりにくくなるという意味では、からだの状態が完全に関係ないとまでは言えないだろう。でも、それは少なくとも「根幹」の部分ではない。それは他の競技やスポーツから見たらほとんど比較にならないくらい小さなことだ。だから将棋においては、僕だって相手と(ほぼ)対等になれると言ってもいいだろう。それがわかったから、僕は将棋を好きになったんだ。

入院中でも独りのときでも、将棋は僕と世界を繋いでくれた

僕が将棋を知って、曲がりなりにも指せるようになったのは9歳くらいだったと思うけど、その頃にはもう僕は何度も入退院をするようになっていた。そして、病院でできる「遊び」はとても限られている。でも将棋なら、病院でもできた。それに、持ってきた本やマンガみたいに飽きてしまうこともない。相手が同じでも、局面はいつも違う。それに、僕も相手も経験を積めば積むほど変わっていくから、ますますおもしろいことが起きてくる。この楽しさは、目の前の苦しみや寂しさを、確実に和らげてくれた。

それにそれは入院中の病院だけじゃない。部屋に独りでいるときに、オンライン将棋サイトに行ってたくさんの「仲間」と対局したり、終わった後に感想戦をしたり、自分で研究したり。こんなふうに、将棋はいつだって、僕と世界を繋いでくれたんだ。

たとえコンピューターが将棋で人間を超えたとしても、「対話」としての将棋の醍醐味は失くならない

最近は特にコンピューター(人工知能)がどんどん発達してきていて、チェスやリバーシより遥かに複雑で、まだまだコンピューターでは追いつけないと思われてきた将棋や囲碁なんかでも、コンピューターがプロ棋士を打ち負かすようになってきている。このまま行けば、いずれ完全に、コンピューターの棋力は棋士を超えるだろう。でも、たとえそれが実現したとしても、将棋のおもしろさや醍醐味がすべて失くなるわけじゃない。だって昔から、

棋は対話なり。

って言われているように、将棋には「人間性」と「コミュニケーション」を巡る奥深さがあるからだ。普段は温厚なひとが将棋では好戦的になったり、普段はガンガン自己主張するようなひとが将棋では堅固な護りを軸にした「受け潰し」戦法を主体にするなんてことも、そんなに珍しいことじゃない。そして、

この手の狙いはなんだ?これは相手のミスなのか?それともこっちの攻撃を誘ってるのか?

みたいに、お互いのハラのなかを探り合いながら、盤上で対話を重ねていくのは、その決着だけではない楽しみがある。もちろん、やるからには勝ちたいとも思うけどね。だからこそ、さらに研究を重ねて、自分を高めようともする。別に、プロ棋士になりたいというわけじゃなくてもだ。

だから、僕は将棋を知ることができて心底よかったと思うし、これからも将棋を観て、指していきたいと思う。それに将棋って、やっぱり「ドラマ」があるんだよね。だから時代時代のマンガの題材にもなったりするけど、僕もそれをずっと、楽しんでいきたいと思う。

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