みんな、「自分より弱いひと」の前だと素直になるよね

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イヤミな顔

みんな、今はほとんどのひとがなにか「ストレス」を抱え込んで生きているように見えるし、きっと実際にそうなんだろう。その理由はいろいろあるかもしれないけど、単純にひとつ言えば、

素直になれないから

というのもその理由だと僕は思う。

だって、僕たちはいつだって、

イヤなものはイヤだ!

なんて言えるわけじゃないし、逆に、

好きだったら好きだ!

と言えるわけでもない。それどころか、

その言葉、傷ついたんですけど!

なんて言うのだって相当勇気が要るし、実際にはまず言えない。そもそも、僕が特にそうだけど、自分勝手にトイレに行くことすらできない。

だからみんな、

自分の意志を自由に表現できない!

という意味では多かれ少なかれ共通した悩みを抱えていると思う。だから、通勤時にはあんなに暗い顔をしているひとも、いざ営業先に行くと無理やりにでもスイッチを切り替えて、ニコニコはつらつとした顔を見せなきゃいけないんだ。

自分より「強い」相手の前では、ひとは自分を抑えこむ

でもさ、そうやって自分を抑えこまなきゃいけないのって、突き詰めて考えると「相手のほうが立場が上だから」だよね?これはつまり相手が自分より「強い」ってことだ。だから、友達同士なら気にせずぶっちゃけられることも、社長相手には言えない。いじめっ子だって、親や教員の前では静かにしている。もしそうじゃないとしたらその親や教員はこどもから「見下されてる」ってことだ。「軽く見られてる」って言ってもいい。

だから、会社ではあんなにビクビクしていたひとが、家族やこどもの前では一転して横柄になったりするのは、相手を「軽く見ている」からだ。そして、軽く見られた相手はどうするかって言うと、「自分よりさらに弱いひとを見つけて、見下す」ってことにもなる。だから、親にキツく当たられたこどもがばあちゃんを殴ったり、激務の介護士がじいちゃんを虐めたりする。これって、「相手が反撃できないのを知っているから」だとも言える。

もちろん、みんながみんな「誰かを傷つける」って方法を選んでしまうわけじゃない。たとえば「カラオケで歌う」とか、「自然の空気を吸いに行く」とか「ワニワニパニックで遊ぶ」とかしてストレスを発散できるのがいちばん理想的だと思う。でも、今はみんながそんなにうまくガス抜きできるわけじゃないから、実際にそれを「自分より弱いひとにぶつけて発散する」っていう手段を選んでしまうひとも少なくはないんだろう。

これは言い換えると、「みんな、自分より弱いひとの前では素直になる」ってことだ。そしてこの「素直」っていうのは善くも悪くもだ。たとえば、「ペットに1日の出来事を話してすっきりする」とか、「ぬいぐるみを抱きしめるとイヤなことを忘れられる」っていうのはいいことだ。でも、そうやっていい感じに消化できないひとは、悪い方向に「素直」になってしまう。そして僕は、自他ともに認める「弱いひと」だ。だから僕はそんなふうに「素直」になったひとを、今までたくさん見てきた。

悪気もなくこんなことが言える「素直さ」

そんな「素直さ」をわかりやすく示してくれた実例がある。これはまたいずれ詳しく書くことになるかもしれないけど、僕がこのからだで生まれて、物心ついた4〜5歳の頃にはもう、どこで聞きつけたのか田舎の僕のうちにたくさんの「宗教関係者」が急に来ることに気付き始めていたと思う。といってももちろん最初は内容なんてよくわからなかったけど、だんだん成長するにつれて、そんなひとたちが、直接僕の目の前でも、

この子がこんなからだで生まれたのは、魂が穢れているからです!

あなた(母)やご家族の因縁(業)が深いから、こんなこどもが生まれたんです!

挙げ句の果てには、

あなたたちが変わろうとしないなら、やがてもっと悲惨なことが起きるかもしれませんよ!

なんてことを、

厳しく聴こえるかもしれませんが、これはあなたのしあわせのために言っているんですよ!

なんて、「真顔」で悪びれもせず言っていることがわかるようになってきた。でもちょっと待ってよ、あなたはそれをどっかの会社の社長に言えますか?それどころか、道行くひとにこんなことを言って歩いたら、

暴言だ!

と認定されて捕まったっておかしくない。慰謝料だって払わなきゃいけないかもしれない。こんな会社の営業を受けたらそれだけでもう品性を疑うし、ましてなにかを買うなんてことはないだろう。たとえそれが、「ほんとにいいもの」であったとしてもだ。

なのになんで、そんな言葉を僕や僕の家族になら言えるんだろう?なんでそんなに「素直」になれるんだろう?そうか、それは僕が「弱いから」だ。「見下されて、軽く見られて、かわいそうだと決めつけられているから」だ。

でも、このひとたちは気付いていないんだろうか?

自分が相手を見ているときには、相手も自分を見ている

ということに。だとしたら、それはとてもかわいそうなことだと思う。半分怖くなるくらいに哀れだと思う。だって、そんな言いかたをしているあなたの顔がどうなっているか、あなたは見えていないんだから。

「いずれ詳しく」と書いたとおり、このような宗教関係者との経験は、改めてここにも書きました。

前にでも少し書いたことだけど、僕が物心ついて物心ついた4〜5歳の頃にはもう、どこからか僕の話を聞きつけたたくさんの「宗教関係者」が僕...

こんなひとは、ほんとにどこにでもいた

今は「宗教関係者」の例を挙げたけど、他にも「医者」や「介護士」、「教員」や「社長」それに「新聞記者」、「おじいちゃん」から「こども」まで、ありとあらゆるひとたちが「素直」になっていく様子を、僕は今までたくさん見てきた。そのほとんどは、「僕の記憶のなか」にしか残っていない。だってわざわざ録音なんかしてなかったからね。でもこれって、もしかしたら誰かにとっては、「なんとかして見たい」と思うくらい貴重なものかもしれないとも思う。だって、「ひとが素直になる瞬間」なんて、そうそう見られないじゃない?でも僕は「ただ生きてるだけで勝手に向こうから」たくさんのそういう瞬間を見せてもらえたんだ。

これは、ひと言で言うととても勉強になった。もちろん、みんながみんな僕に暴言を吐いたりしたわけじゃない。逆に、すごく温かく励ましてくれたひともいる。あとになって、

あのときはひどいこと言ってごめん

って謝ってくれたひともいる。それに結局、そんなことをいうひとってどこか「まともじゃない状態」になってるんだと思う。それだけ「抑えつけてきたもの」が大きかったから、それが歪んだかたちで爆発してしまったんだとも思う。だから一方的に相手を責めてもしょうがなくて、それは「連鎖」の一部なんだろうとも思う。でもやっぱり、傷つくものは傷つく。だったら僕にできることは、

自分はああいうひとにはならない

と思うことだけだ。

あるマンガに気付かされたこと

でもこれって、実は一種の「見下し」なんだとも気付いた。それにはっきり気付いたきっかけは、たまたま見たマンガのなかに、

わかっている こいつらは僕を珍しがっているだけで 同情している

…どころか見下している

それでいいのだ 構わない お前らには一生わかるまい

見下されることの圧倒的な優越感!

西尾維新『症年症女』第Ⅰ症(=第1話)

というセリフがあったのを見たことだった。そうだ、確かに僕は「素直」に悪びれもせず僕を傷つけていったひとたちを「かわいそうだ」と思ってきた。それは今でも変わらない。でも、それならなおさら、僕はどこかでそのひとたちを「見下している」ということに気付いた。でも、他にどうすればよかったのだろう、まして、10歳やそこらの僕に?でも、これでまた1つわかったことがあった。それは、

僕は、「自分を見下すひとを見下す」ことで、自分を護ろうとしてきたんだ

っていうことだ。これは大きな「発見」だった。でも、これに気付いてもやっぱり、僕はあのひとたちを「かわいそうだ」と思う。それは、僕から見るとあのひとたちは、「自分が相手を見下しているということにすら、気付いていなかった」ように思えるからだ。だからって、そのひとたちと僕との間に、実際たいした違いはないのかもしれない。でも僕はせめて、

自分が相手を見ているときには、相手も自分を見ている

ということだけは、これからも忘れずにいようと思う。この「教訓」を忘れずにいることが、あの体験を糧に自分が生きていくために今できる、いちばんのことだと思うから。

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