みんな、今はほとんどのひとがなにか「ストレス」を抱え込んで生きているように見えるし、きっと実際にそうなんだろう。その理由はいろいろあるかもしれないけど、単純にひとつ言えば、
素直になれないから
というのもその理由だと僕は思う。
だって、僕たちはいつだって、
イヤなものはイヤだ!
なんて言えるわけじゃないし、逆に、
好きだったら好きだ!
と言えるわけでもない。それどころか、
その言葉、傷ついたんですけど!
なんて言うのだって相当勇気が要るし、実際にはまず言えない。そもそも、僕が特にそうだけど、自分勝手にトイレに行くことすらできない。
だからみんな、
自分の意志を自由に表現できない!
という意味では多かれ少なかれ共通した悩みを抱えていると思う。だから、通勤時にはあんなに暗い顔をしているひとも、いざ営業先に行くと無理やりにでもスイッチを切り替えて、ニコニコはつらつとした顔を見せなきゃいけないんだ。
自分より「強い」相手の前では、ひとは自分を抑えこむ
だから、会社ではあんなにビクビクしていたひとが、家族やこどもの前では一転して横柄になったりするのは、相手を「軽く見ている」からだ。そして、軽く見られた相手はどうするかって言うと、「自分よりさらに弱いひとを見つけて、見下す」ってことにもなる。だから、親にキツく当たられたこどもがばあちゃんを殴ったり、激務の介護士がじいちゃんを虐めたりする。これって、「相手が反撃できないのを知っているから」だとも言える。
もちろん、みんながみんな「誰かを傷つける」って方法を選んでしまうわけじゃない。たとえば「カラオケで歌う」とか、「自然の空気を吸いに行く」とか「ワニワニパニックで遊ぶ」とかしてストレスを発散できるのがいちばん理想的だと思う。でも、今はみんながそんなにうまくガス抜きできるわけじゃないから、実際にそれを「自分より弱いひとにぶつけて発散する」っていう手段を選んでしまうひとも少なくはないんだろう。
悪気もなくこんなことが言える「素直さ」
そんな「素直さ」をわかりやすく示してくれた実例がある。これはまたいずれ詳しく書くことになるかもしれないけど、僕がこのからだで生まれて、物心ついた4〜5歳の頃にはもう、どこで聞きつけたのか田舎の僕のうちにたくさんの「宗教関係者」が急に来ることに気付き始めていたと思う。といってももちろん最初は内容なんてよくわからなかったけど、だんだん成長するにつれて、そんなひとたちが、直接僕の目の前でも、
この子がこんなからだで生まれたのは、魂が穢れているからです!
あなた(母)やご家族の因縁(業)が深いから、こんなこどもが生まれたんです!
挙げ句の果てには、
あなたたちが変わろうとしないなら、やがてもっと悲惨なことが起きるかもしれませんよ!
なんてことを、
厳しく聴こえるかもしれませんが、これはあなたのしあわせのために言っているんですよ!
なんて、「真顔」で悪びれもせず言っていることがわかるようになってきた。でもちょっと待ってよ、あなたはそれをどっかの会社の社長に言えますか?それどころか、道行くひとにこんなことを言って歩いたら、
暴言だ!
と認定されて捕まったっておかしくない。慰謝料だって払わなきゃいけないかもしれない。こんな会社の営業を受けたらそれだけでもう品性を疑うし、ましてなにかを買うなんてことはないだろう。たとえそれが、「ほんとにいいもの」であったとしてもだ。
でも、このひとたちは気付いていないんだろうか?
自分が相手を見ているときには、相手も自分を見ている
ということに。だとしたら、それはとてもかわいそうなことだと思う。半分怖くなるくらいに哀れだと思う。だって、そんな言いかたをしているあなたの顔がどうなっているか、あなたは見えていないんだから。
「いずれ詳しく」と書いたとおり、このような宗教関係者との経験は、改めてここにも書きました。

こんなひとは、ほんとにどこにでもいた
これは、ひと言で言うととても勉強になった。もちろん、みんながみんな僕に暴言を吐いたりしたわけじゃない。逆に、すごく温かく励ましてくれたひともいる。あとになって、
あのときはひどいこと言ってごめん
って謝ってくれたひともいる。それに結局、そんなことをいうひとってどこか「まともじゃない状態」になってるんだと思う。それだけ「抑えつけてきたもの」が大きかったから、それが歪んだかたちで爆発してしまったんだとも思う。だから一方的に相手を責めてもしょうがなくて、それは「連鎖」の一部なんだろうとも思う。でもやっぱり、傷つくものは傷つく。だったら僕にできることは、
自分はああいうひとにはならない
と思うことだけだ。
あるマンガに気付かされたこと
でもこれって、実は一種の「見下し」なんだとも気付いた。それにはっきり気付いたきっかけは、たまたま見たマンガのなかに、
わかっている こいつらは僕を珍しがっているだけで 同情している
…どころか見下している
それでいいのだ 構わない お前らには一生わかるまい
見下されることの圧倒的な優越感!
というセリフがあったのを見たことだった。そうだ、確かに僕は「素直」に悪びれもせず僕を傷つけていったひとたちを「かわいそうだ」と思ってきた。それは今でも変わらない。でも、それならなおさら、僕はどこかでそのひとたちを「見下している」ということに気付いた。でも、他にどうすればよかったのだろう、まして、10歳やそこらの僕に?でも、これでまた1つわかったことがあった。それは、
僕は、「自分を見下すひとを見下す」ことで、自分を護ろうとしてきたんだ
っていうことだ。これは大きな「発見」だった。でも、これに気付いてもやっぱり、僕はあのひとたちを「かわいそうだ」と思う。それは、僕から見るとあのひとたちは、「自分が相手を見下しているということにすら、気付いていなかった」ように思えるからだ。だからって、そのひとたちと僕との間に、実際たいした違いはないのかもしれない。でも僕はせめて、
自分が相手を見ているときには、相手も自分を見ている
ということだけは、これからも忘れずにいようと思う。この「教訓」を忘れずにいることが、あの体験を糧に自分が生きていくために今できる、いちばんのことだと思うから。

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