「先天性障碍者」と「中途障碍者」の対立は、できるなら早く終わらせたい

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異議あり!

僕は今だから自分のことを「障碍者」だと認識してるけど、それは大きくなるにつれて、

「自分と『社会』との間には、たくさんの不都合(『障碍』)がある」ということに気付かされたからで、生まれたときに、

僕は障碍者だ!

とか叫ぶ赤ちゃんなんていない。

でも、あとから医学的には自分のからだの状態を「脳性麻痺」と呼ぶことがわかって、それは生まれつきのものだからってことで、僕は「先天性障碍者」だということになる。

何度も経験したケンカ

で、そんな僕に対してたまに、

最初から歩けないお前に、歩けなくなった俺の気持ちなんかわかんねぇよ!

なんて言ってくるひとがいるんだ。そう、彼は「中途障碍者」の立場から、「先天性障碍者」としての僕に「殺し文句」を突きつけてきたわけ。でも、それならそれでこっちだって、

少しの間でも歩けたひとに、まったく歩けないひとの気持ちなんてわかんないじゃん!

とでも言い返したくなってくる。

「夢」と「現実」

思えば僕もたまに、夢で「歩いている」ときがある。自分の場合は伝い歩きくらいならまだできるから、そのときの感覚が夢のなかで拡張されていかにも現実みたいに歩けているのかもしれない。そして不思議なくらい、夢のなかでは自然に歩けている。あとたまに、夢のなかで「飛んでいる」こともある。僕はもちろん飛べないし、スカイダイビングとかの経験もない。なのに夢のなかでは自然に飛べている。これももしかしたら、「転んだり倒れたりした経験」をアタマが拡張してさも現実かのように見せているのかもしれない。それに、夢のなかで「殺された」ことだってある。それだって、「想像できること」だからといえばそうかもしれない。

でも僕は、「鉄棒で逆上がりしている」夢を見たことはない。「トランポリンで跳ねている」夢を見たこともない。「跳び箱で飛んでいる」夢も見たことはないし、「鍋を振るって料理している」夢も見たことはない。それは自分にとって「想像もできないこと」だからかもしれない。

けど相手の彼は、そんな僕にとって、「夢にも思わないこと」をできていたときがあるということだ。それって僕からすると、ものすごいことだ。確かに今は彼にもそんなことはできなくなった。でも彼は「できていた」んだ。それは、僕にとってすごく貴重なことだ。それを「1度も体験できない」自分とは、どうしようもない差がある。

「失った哀しみ」

でもそれでもまだ、

けど「失った哀しみ」は、お前にはわかんないだろ!

とかって言ってくるひともいる。けどさ、こっちだって、

昨日はあんなに手が軽かったかと思ったら、今日はまた重たいなぁ。腰の痛みもちょっと強いかな?

みたいなことは多々あるわけで、それだってある意味では「失った哀しみ」なんだよ。その代わり逆もあるから、イヤなことばかりじゃないけどね。それに、遅かれ早かれ、僕だって目も悪くなるだろうし、記憶力だって低下するだろうし、またどこか手術しなきゃいけないようなことだって出てくるかもしれない。そしていつか、死んでからだのすべてを失う。

だから、「失った哀しみ」だっていつかはみんな経験しなくちゃいけないんだよ。確かに、それが他のひとの平均より早いことは悔しいかもしれないけど、でもそれが「自分」なんだから、死ぬまでいろんな変化に対応しながら生きていくしかないじゃん?

それを「先天性障碍者」と「後天性障碍者」なんて区別に留まってお互いを攻撃しあってもさ、特にいいことはないと思うんだ。むしろ、どっちも「困ってるひと」なんだから、どこかでなんとかして協力し合っていったほうがいいと思うんだよね。
特にこれから日本は超高齢化社会で、そんな「困ってるひと」が多くなるってことでしょ?じゃあなおさら、僕らみたいな「若年寄」が役に立つんじゃないかと思うんだけど。なんたって、経験してきた「キャリア」が違うからね。

忘れられない言葉

昔僕は知り合いに、

俺はほら、基本ベッドから動けないからさ、車いすでも四つ這いでもなんでも、動けるお前が羨ましく思うことだってあるよ。でもお前はせっかく動けるんだから、俺のぶんもいろいろ動き回ったらいいよ。

とか、目の見えない別の知り合いに、

お前は俺のぶんも、いろいろ世界を見て回ってほしいと思う。

とかって言われたことがある。

とはいえ僕だって他のいわゆる元気なひとから見たらぜんぜん動けないほうなんだよ。でも、それは「誰と比べるか」の問題でもあるし、結局、ひとには「できることとできないことがある」っていうことしかないとも思う。

「障碍」がどうこうよりも「自分自身」を受け入れられるかじゃない?

それにさ、「障碍を受け入れる」かどうかとか、

「中途障碍者」は「先天性障碍者」よりも障碍を受け入れるのが難しいんだよ!

とかって話が出るときもあるけど、結局それは、障碍がどうだとか、先天性どうこうの問題じゃなく、「そのひとが自分自身を受け入れるか」の問題だと思うんだよね。 そして僕がいちばん思うのは、

いつまでも自分を受け入れないでいても、自分が苦しいだけじゃない?

っていうことなんだ。だから僕は日々の浮き沈みがありながらも、なんとかかんとか生きていられているし、それなりに楽しみも見出だせている。こうやって自由に文章書いてみたりしてね。だって、ないものはないんだからしかたないじゃん。あとは、あるものをどう活かすかと、「文句があるならその言いかたと、相手を考える」ってことなんじゃないかと思うんだけどな。僕のやりかたがいちばんいいかどうかとは別にしてもね。

僕は単純に「仲間」(友達)が欲しい

だから、僕は「先天性障碍者」と「中途障碍者」の対立は、できるなら早く終わらせたいと思ってる。それは、争う相手を間違ってると思うから。そのうえで、なにかを変えたいなら「仲間」(友達)が必要でしょ?だからこそ、困ってるひと同士手を組めるところは組めばいいと思ってるんだ。

だから僕は、

異議あり!

って言う代わりに、

助けて!一緒に考えて!

って言うことにするよ。そしてそれが多くのひとと共有できたら、僕はきっと生きやすくなる。それにそれは僕だけじゃなく、あなたも生きやすくなるってことだと思うんだけど、どうかなぁ?

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